藤原道長
【ふじわらのみちなが】
【日本史の雑学事典】 第7章 愛と憎しみの巻 > 平安時代
■1 とても女性運が良かった藤原道長…娘を次々と天皇に嫁がせ、権力を我が手に
藤原道長は、摂政・関白を歴任した藤原兼家の子ではあったが、5男であり、政権を担う可能性はかなり薄かった。
そこで、せめて結婚によって未来を明るくしようと考え、左大臣・源雅信の娘・倫子に結婚を申し込んだ。ちょうど兼家が関白に就任し、道長もその恩恵で従三位に上ったところであり、いまがチャンスと考えたのだ。
だが、雅信は倫子を天皇の后にしようと思っていたので、この結婚に強く反対した。
そんな雅信を説得したのが、倫子の母・穆子だった。彼女は道長を見て、将来有望な人物だと直感したという。もし彼女の後押しがなければ、道長の未来は違ったものになっていただろう。ときに道長22歳、倫子は24歳。姉さん女房であった。
翌年、道長は2人目の妻を娶る。故・左大臣源高明の娘・明子だ。当時は一夫多妻制だから、別に不実ではない。
明子は父亡きあと、円融天皇の女御・詮子に育てられた。詮子は道長の実姉で、一条天皇の母として、朝廷内に隠然たる力を有していた。だから、明子と結婚することで、詮子の後ろ盾を狙ったのだと言われている。
同じように考えたのは道長だけでなかったが、最終的に明子を射止めたのは、またも道長だった。なぜなら、詮子本人が道長を気に入っていたのである。
このように道長は、なぜか女性たちに気に入られ、その引き立てによって、どんどん栄達していった。
政略結婚とはいえ、道長と妻たちの家庭は円満だった。
倫子からは彰子(→一条天皇中宮)をはじめ、頼通、妍子(→三条天皇中宮)、教通、威子(→後一条天皇中宮)、嬉子(→後朱雀天皇女御)が生まれた。
一方の明子は、頼宗を筆頭に、顕信、能信、寛子、尊子、長家をもうけている。
娘を天皇の后にして皇子を誕生させ、外戚(天皇の母方の親戚)となって権力を握る。それが摂関政治の常道である。だから、娘が多ければ多いほど、権力者になる確率はグンと上がる。
実兄の道隆、道兼、異母兄の道綱といった兄たちが続けざまに死んだことに加え、子宝に恵まれた道長は、娘を次々と天皇の后にし、その娘たちが皇子を生んだ。これにより道長は、約30年ものあいだ、朝廷内での権力の掌握に成功したのである。
何とも女運のいい男性であった。
data-ad-slot値が不明なので広告を表示できません。
【関連コンテンツ】
広告を表示できません。
【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
|
歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
|
出版社:
日本史の雑学事典[link] |