明智光秀
【あけちみつひで】
【日本史の雑学事典】 第4章 陰謀・暗殺の巻 > 戦国時代
■5 明智光秀はなぜ本能寺で信長を殺害したのか…諸説入り乱れ、真相は謎に
本能寺の変――歴史を大きく変えるほどの大事件でありながら、なぜ明智光秀が織田信長を殺したのかという動機がまったく判明しない。何とも不可思議な事件である。
私は光秀に魔が差したのだと思っている。というのは、計画的犯行というには、余りにずさんな天下取りだったからである。
諸大名に対し、「いくらでも領地をあげるから俺に従え」と誘う信長殺害後の光秀の言動は、とても見苦しい。発作的に本能寺を襲撃してしまったというのが真相ではないだろうか。
それにしても、なぜ主君を突発的に襲ったのだろう。怨恨か、それとも野望か――。
多いのは怨恨説である。光秀が自分の母親を人質にして丹波の波多野秀治を投降させたのに、信長が秀治を殺し、そのために怒った波多野氏が光秀の母親を磔にしたので、光秀が深く恨んでいたという説が、江戸中期に書かれた『総見記』に収録されている。
こんな話もある。稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三が明智光秀のもとに出奔したので、怒った一鉄がこれを信長に訴えた。そこで信長は、光秀に利三を引き渡すよう命じたが、光秀はそれを拒んだ。これに激した信長は、激しく光秀を叩いた。そのときの恨みが原因だと『川角太閤記』は語る。
まだある。1582年春、信長は甲斐の武田勝頼を滅ぼしたが、このとき光秀は信長に「私たちも骨を折った甲斐がありました」と祝辞を述べた。すると信長は「なに! いつお前が骨を折ったんだ!」と憤激し、ひどく光秀を殴ったという話が『祖父物語』に出てくる。
『甫庵太閤記』では、徳川家康の饗応役を仰せつかった光秀が、腐った魚を家康に出し、鉄扇で信長に殴りつけられたという。
このように、怨恨説は枚挙にいとまがない。
光秀が信長に折檻を受けていたのは事実らしく、史料的価値の高いルイス・フロイスの『日本史』にも、光秀が信長に足蹴りされたという記述が出てくる。つまり、常日頃の不満が、爆発したというわけだ。
一方、『明智軍記』によれば、光秀は信長の命令で秀吉を救援すべく中国地方へ向かうことになっていたのだが、出立にさいして信長から「中国地方はお前の切り取り次第にしてやる。だが、いま与えている丹波と近江(一部)は没収する」と宣告された。それにショックを覚え、やがて殺意が芽生えたのだという説もある。
これに対し、『豊鑑』や『惟任退治記』には、昔から光秀は、天下取りへの野望を秘めていたとある。
そのほか、光秀のかつての主君で、前将軍の足利義昭が命じたとか、京都の公家や町衆の要望で殺害に至ったなどという黒幕説もある。
信じられないことに、黒幕説のなかには豊臣秀吉説もあるのだ。秀吉が光秀に信長殺害をそそのかし、秀吉はそれが発覚するのを恐れ、光秀を素早く討ち取ったという説だ。
だが、信長が死ぬことによって誰が一番得するかを考えると、もう一人重要な人物が浮かんでくる。それは、このとき畿内にいた徳川家康である。 もし信長が死んだら、三河・駿河・遠江の大大名たる家康は、一気に天下を狙える位置に上昇する。実際、光秀謀反の黒幕は家康だったのだが、余りにも早く秀吉が戻ってきて光秀を討ってしまったため、ついに何もできなかったいう説もある。
ちなみに、明智光秀は家康の参謀・天海僧正だとする伝承もあり、あながちこの説を一笑に付すことはできないだろう。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
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