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忍の浮城
【しのびのうきしろ】

日本史の雑学事典第3章 合戦・戦争の巻 > 安土桃山時代

■12 どんな攻めにも決して落ちなかった城…石田三成の水攻めにも耐え抜いた名城「忍の浮城
 1590年、小田原籠城という作戦に出た後北条氏に対し、豊臣秀吉は力攻めをせず、大軍で城を包囲して動きを封じておき、そのあいだに別動隊を派遣して、後北条方の諸城を迅速に撃破するという戦術をとった。小田原城を物理的・心理的に孤立させ、自らの意思による自発的開城に導こうと考えたわけだ。
 これから述べる忍城(埼玉県行田市)も、秀吉にとっては数ある支城の一つに過ぎず、小田原を自落させるための促進剤だった。
 ところが、この忍城攻めは、意外な結末をもたらすのである
 忍城では、城兵の不足を補うため、農民から商人・僧侶に至るまで入城させ、敵襲に備えた。総数は約2700人と伝えられ、城主の成田氏長が小田原城に入っていて不在なので、一族の城代・成田泰季が籠城の指揮を執った。
 一方、別動隊として派遣された豊臣方攻城軍の大将は、若き日の石田三成であった。総勢は、2万3千人である
 同年6月4日、石田軍は忍城を完全に包囲した。 
 荒川と利根川に挟まれた低地に立地する忍城は、かつて一度も落城したことがない堅城で、別名を『忍の浮城』と称した。遠くから鳥瞰すると、沼地に城自体が浮かんで見えるからだそうだ。また、忍城へと向かう道はいずれも細く、誤って道を外せば、湿地に埋没するしくみになっている。
 包囲の翌日から、三成は諸将に命じて、たびたび城へと進攻させたが、城兵の士気が高いことに加え、狭路よりの侵入は想像以上に困難を極め、兵は湿地に足を取られて敗退を繰り返した。
 そこで三成は、根本的に戦術を改めた。かつて秀吉が備中高松城で展開した、かの水攻めを始めたのである。川に挟まれた湿地帯に位置する忍城を考慮した、なかなかの妙案と言えた。
 ただし、今回の後北条征伐は、持久戦ではない。秀吉は、各支城の迅速な攻略を望んでいた。
 それゆえ、速やかに城の周囲に堤防を築き、川の水を引き込んで、それにより忍城を水没させようと計画した。そして、高額な報酬を払って周辺から数万人の人夫を集め、わずか1週間で全長14キロの堤を完成させたと伝えられる(そのときの堤防の一部が、いまも「石田堤」として残っている)。
 完成後、直ちに堤内に川から水が引き込まれた。幸運なことに梅雨の時期だったため、豪雨によって水位はどんどん増大し、城の水没はもはや時間の問題となっていった。
 ところがである。突貫工事のせいか、完成したばかりの堤防が突然決壊し、濁流が石田軍を直撃して、将士270名が溺死するという惨事をもたらした。石田方の陣地のみならず、忍城周辺は水浸しになり、城攻めは余計に難しくなってしまったである
 一説には、工事人夫のなかに多数の成田氏家臣が紛れ込み、わざと手抜き工事をしたとも言われている。
 同年7月5日、ついに後北条氏は、小田原城を開いて降伏した。
 ところが、この日になっても忍城はまだ、落城していなかった。この時点で忍城が、後北条方で唯一陥落していない城郭となったのだった。
 結局、豊臣方と内通したことで小田原城から生還した忍城主・成田氏長の説得により、ようやく7月16日に忍城は開城した。
 その後、この城は江戸城の北を守る要害として重視され、累代、譜代大名が入封することになったのである


日本実業出版
「日本史の雑学事典」
JLogosID : 14820744


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【この辞典の書籍版説明】

「日本史の雑学事典」河合敦

歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。

出版社: 日本史の雑学事典[link]
編集: 河合敦
価格:1404
収録数: 136語224
サイズ: 18.6x13x2.2cm
発売日: 2002年6月
ISBN: 978-4534034137