軍師②
【ぐんし】
【日本史の雑学事典】 第3章 合戦・戦争の巻 > 戦国時代
■7 異常なほど縁起や日取りを気にした戦国大名…縁起をかつぐ儀式だらけの出陣式
現代でも、仏滅の日に結婚式を挙げる人は滅多にいないし、大安の日に葬式や法事を入れないだろう。けれど、最近の若い人は、あまりこうした日取りを気にしなくなってきているのは確かである。
だが、古代の貴族などは、そんなことばかり気にして生活していたのだ。「今日は日が悪いので外出しない」とか、「あっちは方角が良くないのでいったん方違えしてから出向く」など、平安貴族の日記を見れば、いかにそうしたことに時間を費やしていたかがよくわかる。
こうした風潮は、戦いを生業にする戦国大名にも強く見られた。とくに戦に当たっては、本当に気を遣っている。
まずは出陣の日程。いつ戦闘を開始するかということを、くわしく軍師に調査させるのである。軍師は、暦や天体の動きを睨みつつ、易学の知識を駆使し、周囲の状況を加味するなどして、総合的に推考したうえで、出立の日時を大将に進言する。
軍師の決めた日取りは、かなりの拘束力を持った。1538年、北条氏綱は国府台城(千葉県市川市)にいる足利義明を倒すべく、大軍を引き連れて江戸城へ入った。このとき氏綱に戦闘開始のタイミングを進言したのが、軍師の根来金石斎であった。金石斎は、日取りの吉凶、天罰、怨霊といったマジカルな要素を攻撃開始の理由にすえ、
「敵の義明は、これまで日取りの吉凶を軽んじ、天道を恐れませんでした。また、彼には殺した部下の怨霊が取りついています。ゆえに、いまが滅びのとき。躊躇せずに明日攻め込むべきです」
そう氏綱に告げた。氏綱は金石斎の意見に従って、翌日国府台城へ攻め入った。結果、氏綱は勝利し、義明は討死している。
甲斐国の武田勝頼も、1575年春に三河国へ出陣する予定でいたが、先送りしたほうがよいと言う軍師の進言に従い、出発を先延ばしにしている。
さて、軍師の進言により、いよいよ出立という日が定まると、出陣式が執りおこなわれる。
出陣式にも、一応決まった手順がある。
城中や寺社に兵が集められ、酒の入った銚子と茅の葉が大将の前に置かれる。肴は、のした打鮑と干した勝栗。兵にも同じものが配られ、大将から順に、土器に酒が注がれてゆく。
酒が行き渡ったところで、大将は9万8千の軍神と2800の軍天に勝利を祈願して、
「我ガ軍ニ勝栗。我レニコノ敵ヲ打鮑。コノ勝利ヲサケエテメセ」(『兵将陣訓要略鈔』)
と低く祝詞を誦し、一息に酒を飲み干す。それに続いて兵も酒を飲み下し、肴に口をつけて出陣式を終える。
打鮑、勝栗のほかに、昆布が出る場合もあった。
これらの肴は「打って、勝って、喜ぶ」という縁起が込められている。
続いて、門出の儀式として『包丁越え』をおこなうのが一般的だった。城門に、刃を城外に向けた包丁を置き、これを飛び越えて出立する。敵の刃を踏み越えて戦うという決意を示すためだ。
さて、ついに敵と遭遇し、対峙する場面を迎えると、ここでまた軍師が必要になってくる。血祭りの儀式を執りおこなうためである。
血祭りとは、本格的な戦闘に入る前に敵兵を一人生け捕りにし、これを軍神への生け贄として殺害するセレモニーである。これによって軍神を我が陣に招き、勝利を掴もうというものだ。
このように戦国大名たちは、非常にマジカルな要素を重視して戦争を展開していったのである。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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