国書
【こくしょ】
【日本史の雑学事典】 第2章 事件の巻 > 大和時代
■1 大事な国書が盗賊に盗まれた?…遣隋使・小野妹子の信じられない大失態
607年、聖徳太子は、隋に小野妹子を派遣して対等外交を求めた。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」
という一文で始まる大和政権の国書は有名だろう。
隋は、分裂していた中国大陸を統一して生まれた巨大王朝であった。そんな強大な帝国にこんな無礼な書面を手渡すとは、何とも大胆な話である。
隋の皇帝・煬帝は、この国書を見て烈火のごとく怒り、外交官を呼んで、
「こんな無礼な国書が来たら、二度と俺に見せるな!」
と叱責した。
しかし、不思議なことに、それほど立腹したにもかかわらず、煬帝は小野妹子に隋の国書を差し出し、答礼使・裴世清をつけて帰国させたのである。
これには訳があった。当時の隋は、中国東北部から朝鮮半島北部を支配していた高句麗と対立関係にあり、同国を征伐しようと準備を進めていたのである。大和政権は古来より、朝鮮半島南部での利権を維持するため、高句麗と抗争を続けてきた。そんな大和政権との友好関係を崩したくないという本音が、煬帝のこうした妥協的外交になったと思われる。
そして実は、それが聖徳太子の狙いだった。
太子は当時、蘇我氏など豪族の力を押さえ、天皇を中心とする中央集権的官僚国家の形成をもくろんでおり、隋が対等外交を承認すれば、国内における天皇の地位は飛躍的に高まり、太子の理想も実現に近づくというわけだ。
翌年4月、裴世清を伴って妹子は帰国する。
一行は朝鮮半島を経て、筑紫(いまの九州)に着いた。大和政権は吉士雄成に出迎えさせ、難波(大阪)に新設した迎賓館で答礼使たちを歓待した。それから1か月半後、都の飛鳥へ彼らを迎え入れ、推古天皇との会見が実現した。
かくして答礼使との外交儀礼はつつがなく進行し、同年9月、裴世清らは帰国の途についたが、実はこのあいだ、裏ではとんでもない騒動が起こっていたのである。何と、あやうく小野妹子が流罪にされるところだったのだ。
それは、妹子が考えられない大失態をやらかしたからである。信じられないことに、隋の煬帝から手渡された国書を、百済(朝鮮半島南部に存在する国家)を通過するとき、盗賊に掠め取られたというのである。
「大切な国書を簡単に盗まれるとは、余りにお粗末。妹子は即刻流罪にすべきだ!」
という声が、群臣たちの圧倒的な意見だった。これに対して推古天皇は、
「いま妹子を罰してしまったら、裴世清たちに知れてしまい、それが隋の煬帝の耳に入ったら、我が国の体面にかかわる」
と言い、その罪を許したのである。
妹子は、裴世清と共に再度隋へ派遣され、その帰国後も罰せられた形跡がない。晩年は、大和政権冠位十二階の最高位である「大徳」にまで上り詰めている。
そんなことから、「本当は隋の国書は盗まれていなかったのではないか。その内容があまりに大和政権に対してひどいものだったので、公開することができず、聖徳太子や推古天皇と相談のうえ、自分が泥をかぶって盗まれたことにしたのだろう」という説がある。
いずれにしても、何とも疑問が残る不可解な事件である。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
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