中国の暦①
【ちゅうごくのこよみ】
【暦の雑学事典】 3章 暦の進化史 >
◆易の起源といわれる河図洛書とは?
中国の暦法は卜占と深いつながりをもっている。西暦前二〇〇〇年頃の竜山文化時代の遺跡からは、卜占に用いられたと推定される獣骨が出土している。西暦前一五〇〇年頃の殷の時代になると、卜占はいっそうさかんになり、亀甲や獣骨を焼いて、その裂け目によって、吉凶が判断されたりした。卜という漢字はそのひび割れの形に、ボクという読みはひび割れるときの音に由来するという。
この卜占に古代中国の陰陽思想が融合して生まれたのが「易」である。伝説によれば古代中国の「三皇五帝」の三皇の一人である伏犧は、黄河に現われた竜馬(きわめてすぐれた馬)の背中の旋毛の不思議な模様を写しとって図にしたという。これは河図と呼ばれる。また、夏(殷の前に存在したという王朝)の聖王・禹は、洛水に現われた神亀の背中の模様を写しとって、洛書というものを残した。易の八卦(陰陽を組み合わせた八種類の図形)は、この「河図洛書」が起源といわれる。
◆上旬・中旬・下旬は卜占に由来する
中国は世界で最も古くから太陰太陽暦が発達した国である。遅くとも殷の時代までには、大の月(三〇日)と小の月(二九日)を組み合わせた一二か月を一年とし、二、三年ごとに閏月を置く原初的な太陰太陽暦が成立していたという。
陰陽思想や五行説といった独特の自然哲学が卜占と結びついて、中国独特の暦体系ができたのも殷の時代である。自然観察に基づいて、万物は陰陽の二気からなるとするのが陰陽思想で、木・火・土・金・水をその実体的な要素とするのが五行説である。
古代中国の卜占においては、一〇日ごとに吉凶を占う習慣があり、これを卜旬といった。上旬・中旬・下旬という一か月の三分法も、殷の時代に始まっている。また、干支紀日法すなわち日付を甲子、乙丑……、癸亥という六十干支で表わす方法も、殷の時代に始まり、次の周の時代に正式に暦の上に記載されるようになったという。
干支による紀年法は戦国時代に始まる。干支紀年法はのちに東アジアの漢字文化圏における共通の紀年法となり、今日でも歴史を対照させるのにきわめて便利である。これは漢代初め頃から、改暦があっても正しく干支の順番が受けつがれ、朝鮮、日本にも伝えられたためだ。したがって、国によって年号が違っても、年月日の干支はともに共通しているのである。
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