イラン暦
【いらんれき】
【暦の雑学事典】 3章 暦の進化史 >
◆イラン暦はゾロアスター教の古代暦に由来
イラン(かつてのペルシア)においては、宗教行事用のイスラム暦(太陰暦)とは別に、春分の日を元日(ノウルーズ)とする太陽暦が、生活に密着した伝統暦として用いられている。イラン暦ともペルシア暦とも呼ばれるこの暦は、ゾロアスター教の古代暦に起源するといわれる。
ゾロアスター教とは西暦前六世紀頃のペルシアのゾロアスターを教祖とする宗教である。この世は光の神(善神)であるアフラ・マズダと、闇の神(悪神)であるアフリマン(アングラ・マイニュ)との戦いであるという世界観をもち、人間はアフラ・マズダの庇護を受け、アフリマンを克服しなければならないと教えている。こうした善悪二元論的な世界観は、定住民である農耕民族をおびやかした遊牧民族に対する闘争の歴史を反映しているともいわれる。ゾロアスター教は光の象徴として火を崇拝したので拝火教とも呼ばれる。
中世までペルシアの国教となっていたゾロアスター教は、七~八世紀のアラブ支配期にイスラム教によって駆逐された。しかし、農耕民族の使っていたゾロアスター教の太陰太陽暦は伝統暦として残された。イスラム教は教義に抵触しないかぎり、異文化に対しては寛容で、便利なものは積極的に受容するのである。
◆イラン革命で廃止された短命の暦
一二世紀初め頃のセルジュク朝ペルシアのウマル・ハイヤームは、ヨーロッパや日本では四行詩集『ルバイヤート』の詩人として知られるが、天文学・数学・医学にも長じた希代の大科学者で、彼はゾロアスター教の伝統暦を改良したジャラーリー暦を作成した(ジャラーリーとは当時の王の名前)。これは一二の月をすべて三〇日とし、年末に五日の閏日(閏年は六日)を設けるというもので、グレゴリオ暦よりも合理的なところがある。
ジャラーリー暦はウマル・ハイヤームの時代には公式には採用されなかったが、民衆の間には広く普及し、二〇世紀初めにはイスラム暦と折衷した公用暦として採用された。これは紀年法をイスラム暦のヒジュラ紀元(西暦六二二年)とし、暦法は春分の日を年始とする太陽暦をとりいれたもので、ヒジュラ太陽暦ともいう。
第二次世界大戦後のイランでは、国王モハンマド・レザー・パフラビー(パーレビ)によって、強力な近代化政策が推進された。改革は暦にも及び、一九七六年には古代アケメネス朝ペルシアのキュロス大王の即位の年(西暦前五五九年)を紀元とする帝王暦に改暦された。しかし、これはあまりに時代錯誤的な改暦であったために国民の評判はすこぶる悪く、またホメイニ師の指導する革命運動の嵐も高まって、イラン革命前年の七八年に廃止された。使用されたのはわずか二年五か月という短命の暦であった。
今日、イラン暦と呼ばれるのは、伝統的なヒジュラ太陽暦である(紀元はイスラム暦と同じく西暦六二二年)。ただし、各月の日数は一月~六月が三一日、七月~一一月が三〇日、一二月は平年二九日、閏年三〇日となっている(閏日は一二八年に三一回、年末に挿入)。
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「暦の雑学事典」吉岡 安之 |
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