大食い競争
【おおぐいきょうそう】
【日本史の雑学事典】 第10章 文化の巻 > 江戸時代
■6 江戸時代に流行した大酒・大食い競争…ビックリ仰天バトルの勝者は?
「大食いバトル」、「大食い選手権」などといって、時々テレビで特集が組まれるくらい、日本人は大食い競争が好きである。
そもそも、こうしたゲームが流行り出したのは、江戸時代に入ってからのことだ。とくに江戸時代も中期になってくると、各地で大食い・大酒競争が開かれるようになってくる。
なかでも有名なのは、1817年3月23日に、江戸・両国柳橋にある萬屋八郎兵衛の料理店「萬八楼」で開催された「大酒大食の会」であろう。
そのときの「酒飲み」の部の最高記録は、30歳の鯉屋利兵衛による1斗9升5合(35リットル)というものだった。3升入りの大盃で6杯半も飲んだという。たとえ水であっても飲めない量だと思うのだが、よくもアルコール中毒で死ななかったものだ。
しかも利兵衛は、しばらく休んだあと、茶碗で水を17杯も飲んだと伝えられる。いったい、どんな体をしていたのだろう。
一方、「大食い」の部では、飯や蕎麦、菓子(饅頭、羊羹、煎餅など)、鰻といった食べ物ごとに分かれて競い合った。茶漬けは41歳の三河島に住む三右衛門が食べた68杯、蕎麦盛りは池之端仲町の山口屋吉兵衛(38歳)による63枚という記録が残っている。味わうどころではなく、かなり殺伐とした食いっぷりだったようだ。
この、とんでもない大会の記録は、『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』で知られる戯作者・滝沢馬琴が書き著した『兎園小説』に出てくる話である。馬琴が当時の文人たちに呼びかけ、毎月1回、身辺で見聞きした珍談・奇談を披露し合う「兎園会」で出たおもしろ話をまとめたものだ。
また、庄田安照と一応という僧侶の大食い競争もすごい。
1694年のこと、日光東照宮の造営に携わっていた庄田の大食いのうわさを聞きつけ、日光のこれまた大食自慢の僧侶・一応が「そば食いなら負けない」と挑戦してきた。
庄田の主君・秋元泰朝は2人を呼んで、その面前で、2人はそば食い競争をおこなうことになった。だが、2人共底なしで、何杯食べてもなかなか決着がつかない。
そこで庄田は、今度は米びつに味噌汁をかけて競争をしようと一応に提案した。これを聞いた一応は、さすがに驚いて降参し、逃げ出してしまった。
庄田は、これでもまだ食べ足りずに、大食い競争のあと、飯を50杯平らげ、帰宅したあとも自宅で茶漬けを食べたという。
この話を聞いた将軍・徳川家光は、ぜひ庄田の食いっぷりが見たいと彼を召した。そこでも信じられないことに庄田は、柿100個と砂糖10斤(6キロ)を平らげて見せたのである。
最初は柿の種まで食べていたらしく、将軍に「種は出すように」とたしなめられたという。
元禄年間の江戸のうわさ話を書き留めた『元禄世間咄風聞集』に載る逸話である。
大食い競争だけでなく、江戸時代にはゲテモノ食いも流行した。なかにはこれを見せ物にする人もあったようだ。
1758年、のちに「大坂道頓堀の鍋食い男」と呼ばれるようになる人物が現われた。彼は、砂や茶碗、湯呑み、鍋や釜などをバリバリ歯で噛み砕き、お茶と一緒に飲み込んだと言われている。最後には燃えさしまでうまそうに食べていたというから驚きである。
その後、江戸に渡り、ここでも「火食い坊主」と称して人気を集めたという。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
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