徳川綱吉
【とくがわつなよし】
【日本史の雑学事典】 第4章 陰謀・暗殺の巻 > 江戸時代
■8 江戸城大奥に不開の間があった!…「宇治の間」で起きた将軍刺殺説は本当か
かつて、江戸城の大奥に「不開の間」があった。「宇治の間」というのが、それだ。
部屋を囲む襖全体に、宇治の茶摘みの絵が大きく描かれていることから、そういう名称がついたと言われている。
1590年に徳川家康が駿河国(静岡県)から関東に移封され、それ以来、徳川家の居城とされてきた江戸城は、幕府の置かれていた江戸時代・約260年の長い歴史のなかで、何度も火災に遭っている。当然、「宇治の間」も、その都度いっしょに焼け落ちている。
どうせ使わない部屋ならば、わざわざ再建せずともよいと思うのだが、何とも奇怪なことに「宇治の間」は、焼失のたび、そっくり元のまま造り直されているのである。
実はこの「宇治の間」に関して、にわかに信じられない言い伝えが残されている。
それは、この部屋が、5代将軍・徳川綱吉の刺殺された場所だというのである。しかも、その犯人が綱吉の正室・鷹司信子だというから驚くではないか!
幕府の正史といってよい『徳川実紀』によれば、綱吉は、いわゆる流行性の麻疹にかかって亡くなったことになっている。
だが、注意深く彼の臨終前後の記述を見ていくと、確かに多少の違和感を覚えるのである。
1708年12月28日、綱吉は体調を崩して麻疹を発病するが、病状は大したこともなく、翌年の正月9日には、快気祝いを執りおこなうまでに回復している。
ところが、翌日の10日、にわかに容体が急変し、その日のうちに死亡してしまったのだ。
享年は64歳で、当時としては老年の部類に入るとはいえ、快気祝いまでやった人間が、その翌日にコロリと死んでしまうとは、にわかに信じがたい話である。
妙なことは、もう一つある。綱吉の死からちょうど1か月後の2月9日、今度は正室の信子が、やはり綱吉と同じ麻疹にかかり、没しているのである。
はたして、偶然の一致であろうか?
綱吉の没後70年経って著された随筆『翁草』には、著者が人づてに聞いた話として、綱吉の刺殺説がまことしやかに詳述されている。
それによれば、世継ぎのない綱吉は、寵臣・柳沢吉保に100万石のお墨付きを与え、その子・吉里を次期将軍にすえようと決心、それを正月11日におこなわれる鏡開きの日に、臣下に公式発表することに決めていたらしい。
これを知って驚いた信子は、ただちに宇治の間にいた綱吉のもとを訪れ、強く諌言したという。だが、綱吉は一向に自分の言葉に耳を貸す気配がなかった。
信子は、自分の意見が受け入れられないことに激しい焦りを感じた。
「このままでは、将軍職が名もなき卑しい者に渡ってしまう」
思い余った彼女は、いきなり綱吉に抱きついたかと思うと、持っていた懐剣で綱吉の胸を深く貫き、絶命させたのである。
その後、信子は重臣たちに現場の後始末を命じ、自らは別室に籠もって、そのまま自害して果てたと伝えられる。
もちろん、いまとなっては、真相は解明できない。しかし、とても史実とは思えない、何とも奇想天外な説である。
結局、将軍職は綱吉の甥に当たる徳川家宣が継ぐことになる。
data-ad-slot値が不明なので広告を表示できません。
【関連コンテンツ】
広告を表示できません。
【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
|
歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
|
出版社:
日本史の雑学事典[link] |