赤松満祐
【あかまつみつすけ】
【日本史の雑学事典】 第4章 陰謀・暗殺の巻 > 室町時代
■4 クジ引き将軍を真っ昼間に暗殺した赤松満祐…守護大名を無謀な行動に走らせた理由とは
1441年6月24日、室町幕府の6代将軍である足利義教が、真っ昼間に部下に殺されるという事件が発生する。世に言う嘉吉の乱である。
犯人は、赤松満祐という播磨・備前・美作を領有する守護大名だった。
この日、満祐は将軍を自邸に招いて、盛大な宴会を開いたという。1438年、鎌倉公方・足利持氏を永享の乱で追討し、翌年、自害へと追い込んだ義教は、さらに1440年、持氏の遺児である結城氏朝の挙兵に対して出兵、翌年、4月16日に結城城を落城させた。この足利合戦の勝利を祝っての宴である。
部下や貴族を引き連れ、舞台では猿楽が演じられるなか、将軍・義教はことのほか上機嫌だったとされる。
そんな酒宴の途中、屋敷の内外が急に騒がしくなった。
「屋敷から馬が逃げるぞ。それ、屋敷中の木戸をすべて閉じろ!」
そういった怒鳴り声がして、馬を追いかけるふりをした満祐の家臣がバラバラと現れ、屋敷の出入り口がすべてふさがれた。もちろん、彼らは刺客であり、木戸を閉じたのは将軍を逃がさないための方策である。
やがて数十人の刺客が義教に殺到、あっけなく義教は殺されてしまった。
だが、なにゆえ満祐が将軍を殺害するなどという大それたことを考えたのだろう?
実は、それがいまもってよくわかっていないのだ。当然、そんなことをすれば自滅するのは間違いない。事実、播磨に逃げた満祐は、幕府軍に攻められ、自刃している。
義教は、1425年に5代将軍・義量が死んだ後、その職を代行してきた4代将軍・義持が1428年、後継者を決めないまま死んだため、義持の弟4人のなかからクジ引きで6代将軍に選ばれている。
一説には、義教が激情型の暴君で、怒りにまかせて、次々と守護大名の領地を没収したり、殺害していることに恐れをなしたから、というものがある。
義教の場合、ほんのささいなことでも処罰のきっかけになった。
例えば、義教がいることに気づかずにクスッと笑った東坊城益長は、ただちに領地を没収された。酌の仕方が下手だった侍女の少納言局は、激しく殴られ、髪を切られて尼にされた。また、義教に説教しようとした日蓮宗の日親に対しては、火で熱した鍋を頭にかぶせたうえ、しゃべらないようにと舌を切り、放逐した。
確かに普通ではない。狂っている。どうやら義教は、きっかけさえあれば発作的に怒りが爆発してしまうようだ。
事件の一か月前には、若狭・丹後・三河の守護大名・一色義貫と伊勢半国守護の土岐持頼が義教に殺されており、この説は説得力がある。
さらには、義教は赤松一族の貞村が美形なので寵童にしており、満祐から領地を没収して彼に与える計画を知って暗殺に及んだというものがある。
最後にもう一つ、満祐は異常に背が低く、それを義教が『三尺入道』と呼んで馬鹿にしたことを恨んでの凶行という説もある。
いずれにせよ、義教に人望があったとは思えない。暗殺のときも、誰一人として殉死したり、仇討ちしようとはしなかった。満祐討伐の部隊が出発したのも、実は事件後1か月も経ってからのことだった。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
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