舗装道路
【ほそうどうろ】
【道と路がわかる事典】 3章 長い永い道の歴史 >
舗装道路は古代ローマ帝国の時代にすでに存在していた。だが日本での舗装道路は、江戸時代に入ってからのことである。しかも、現在のようなアスファルト舗装ではなく、石畳によるものだったため、とても車が走れるような代物ではなかった。
日本の道路舗装は、わが国に自動車が走るようになってから、政府もやっと重い腰を上げたといっていい。その証拠に、日本に初めて自動車が導入された一九〇三(明治三六)年当時、わが国の道路はまったくの未舗装だったのである。もちろん東京の都心部も舗装されていなかった。
そんな状態だったから、雨が降ればたちまち泥沼と化す。今では一般家庭からすっかり姿を消してしまった長靴が、当時は必需品だったのである。車のタイヤが泥の中にめり込んで、立往生することも珍しいことではなかった。でこぼこ道には雨水が溜り、そこを走り抜ける車の飛ばすハネが、洗濯したばかりの通行人の衣服に容赦なく飛び散る。泥水が通行人の顔面に浴びせられることは日常茶飯事であった。
晴天が続くと道路の様相は一変する。車が通ろうものなら、舞い上がる砂塵で青空は灰色になる。目は開けていられず、口の中は砂利っぽくなる。家の中にまで砂塵が舞い込んでくるから、窓もおちおち開けられない。絶好の洗濯日和のはずが、最悪の洗濯日となる。
わが国で初めてのアスファルト道路は明治の終り頃だといわれているが、まだ舗装技術は未熟で、現在の簡易舗装のような初歩的なものだったと思われる。大正一五年に完成した東京都品川区から横浜市神奈川区までの約一七kmと、兵庫県尼崎市と神戸市灘区までの約二二kmが、わが国初の本格的な舗装道路、今でいう本舗装だったのである。
日本の道路が、西欧諸国に著しく遅れをとった原因はいろいろある。最大の原因は、日本には馬車交通の時代がほとんどなかったことが挙げられる。江戸時代までは、陸上交通の手段はもっぱら徒歩であった。また、周囲を海で囲まれていたため、物資の輸送も海路を利用することが多かった。河川による舟運も発達しており、陸上交通は軽視されがちだったのである。
明治に入って馬車が輸入され、交通機関として機能しはじめたものの、それまで徒歩に耐えられる程度にしかつくられていなかった日本の道路は、馬車の通行によって立ち所に損傷。あまりのでこぼこ道に、馬車が引っ繰り返るという事態まで発生した。その対策を講じる間もなく、明治五年に新橋―横浜間に鉄道が開通し、全国で鉄道が建設されはじめた。政府が陸上の交通機関として鉄道優先策をとったのも、道路整備が立ち遅れた大きな原因である。道路を破壊する馬車より、高速性に優れ、大量輸送が可能な鉄道を政府が選択したのも、やむをえないことであった。もっと早く馬車が日本に輸入されていれば、状況も大きく変わっていたはずである。
日本の道路が遅れたもう一つの原因に、わが国の複雑な地形がある。平地が少ないためどこへ行くにも山や川を越えなければならない。当然、トンネルや橋が必要になる。道路の建設には、外国の何倍もの費用を要したのだ。
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【この辞典の書籍版説明】
「道と路がわかる事典」浅井 建爾 |
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道を切り口に日本を旅する楽しみに出会う本。身の回りの生活道路の不思議から、古道の歴史、国道や高速道路、橋やトンネル、乗り物まで道と路に関する知識が満載。 |
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