藤原道長
【東京雑学研究会編】
【雑学大全】 ヒトの不思議 > 人物
太政大臣・藤原道長は平安中期の貴族で「御堂関白」とも「法成寺入道前関白太政大臣」とも呼ばれた有力者だ。
長女・彰子は一条天皇の皇后となって後一条天皇・後朱雀天皇を産み、次女・研子は三条天皇の皇后、三女・威子は後一条天皇の皇后、四女・嬉子は後朱雀東宮の妃、という縁組みによって権勢を得た。栄耀栄華を誇って詠んだ歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたるところなしと思へば」はあまりにも有名。
さて、藤原道長が権力を握っていたこの頃、都では疫病や戦乱が続き、人々は末法の世の到来と思い、阿弥陀教に傾倒していった。特に空也が布教していた空也念仏の信者は激増していた。
阿弥陀信仰は中央アジアを経て七世紀頃日本に伝わった。特に阿弥陀仏による救済によって衆生の極楽浄土への往生が実現されるとした『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』が爆発的に広がっていた。
都で最高ともいえるほどの権力者となった藤原道長もこの阿弥陀教に心酔していたのだ。
藤原道長は一〇一八年、三女・威子が皇后になって以降は病気がちになり、法成寺の造営に力を傾けた。二〇年には無量寿院が完成し、藤原道長はそこに九体の阿弥陀仏を安置した。二二年には金堂や薬師堂や釈迦堂も建ち、法成寺の造営はほぼ完成した。これらは御堂と呼ばれ、これが藤原道長が「御堂関白」と呼ばれるゆえんだ。
藤原道長は二七年に入ると急激に病状が悪化し、一二月四日、無量寿院に床をのべさせ、自分の手に一本の糸を巻きつけ、その先を阿弥陀如来像に結びつけて逝去した。
「この世をばわが世とぞ思ふ」と自分の栄耀栄華を詠った藤原道長だが、最後はわずか一本の細い糸で仏につながろうとした。
世の中の名声と権力を欲しいままにした藤原道長でも、神仏に頼らなければ臨終の心の安らぎは得られなかったのだ。
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