はじめに
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【旅するワールドカップ〜キーワード集】 はじめに >
「あのときのことを思い出すと、いまでも悔しさがこみ上げてくるよ」 2010年2月5日、フランシスコ・「パンチョ」・バラージョはアルゼンチン・ラプラタ市の自宅で百歳の誕生日を迎えた。世界中から送られてくるお祝いのメッセージに埋もれながら彼が語るのは、80年も前のひとつの試合である。 1930年7月30日、ウルグアイの首都モンテビデオで行われた第1回ワールドカップ決勝戦、地元ウルグアイと対戦したアルゼンチンの右インサイドフォワードとして出場したバラージョは、試合の後半、まったく動くことができず、ウルグアイが次つぎとゴールを記録して4?2で逆転勝利をつかむのを見ているしかなかった。 当時20歳のバラージョは、アルゼンチンの「秘密兵器」だった。大会直前に代表入り、1次リーグ初戦から出場し、メキシコとの第2戦では2点を挙げて6?3の勝利に貢献した。小柄ながらどう猛なまでにゴールに向かっていく選手で、抜群の決定力をもっていた。しかし第3戦のチリ戦でひざを痛めて準決勝のアメリカ戦を欠場、決勝戦には強行出場したものの、後半、ひざの痛みに耐えかね、はじめに第1回ウルグアイ大会(1930 年)ポスター【上】フランシスコ・バラージョ【下】ついに走れない状態になってしまったのだ。当時のサッカーに交代はない。彼のほかにも2人の故障者が出て実質的に8人になってしまったアルゼンチンは、地元ウルグアイの怒濤の攻めを食い止めることができなかった。 この試合に出場した選手の唯一の「生き残り」であるバラージョが百歳を迎えた2010年、ワールドカップも80歳を迎えた。1930年にモンテビデオを出発したワールドカップは、ローマ、パリ、リオデジャネイロ、ベルン、ストックホルム(ソルナ)、サンチャゴ、ロンドン、メキシコシティ、ミュンヘン、ブエノスアイレス、マドリード、再びメキシコシティ、ローマ、ロサンゼルス(パサデナ)、パリ(サンドニ)、横浜、そしてベルリンを経て、ことし南アフリカのヨハネスブルクで19チーム目の手に渡る。1974年に「代替わり」はあったものの、19回の決勝戦会場を結ぶだけでも「ワールドカップの旅」は約16万キロ、地球4周分にもなる。その間、この小さなカップをめぐって、無数の歓喜と、そしてバラージョのような無数の落胆があった。その歓喜と落胆の一切合財を含め、ワールドカップは「人類の宝」と言うことができるのではないだろうか。
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