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大原孫三郎
【おおはらまごさぶろう】

日本史の雑学事典第8章 思想・生き方・考え方の巻 > 昭和時代

■11 1人の資産家が倉敷の衰退を救った…郷土のために私財を投じた大原孫三郎
 JR倉敷駅から中央通りを10分ほど行き、通りを左に折れると、そこで景観は一変する。ここが、岡山県倉敷市の倉敷美観地区である
 堀割(倉敷川)の両岸に道が走り、街道に沿って古い土蔵や商家がずらりと並ぶ。
 土蔵の厚みのある白壁の下部には、黒光りする平瓦が秩序正しく張りつけられ、目地に漆喰をカマボコのように盛り上げてある。俗に「なまこ壁」と称されるものだ。そのため、壁面の白と瓦の黒が、絶妙なコントラストを成していて美しい
 商家のほうも、火や水から建物を守るため、大部分が塗屋造りになっている。
 倉敷の住居は「つし」と呼ばれる2階部分に特徴がある。天井が低く、人が住むのには適さないが、「倉敷窓」という独特の通風口が備えつけられ、物置に使用される
 開け放たれた商家の奥の間からは、飴色に変色した柱が顔を覗かせ、その年輪の古さを偲ばせる。
 堀端には等間隔に柳が植えられ、川には眼鏡橋が架かり、高瀬舟が水面に浮いている。時折、観光客を乗せた人力車が脇を走り抜けてゆく。映画のセットのなかにいるようで、裏に回ったときに初めて張りぼてでないことが確認できる。
 かくまで完璧な状態で、この一角は昔のまま凍結されている。ただし、建物の大半は、美術館や旅館、喫茶店などに再利用されているため、人間の生活臭は余り感じられない。
 江戸の昔、この地は高梁川の河口に位置し、物資の集散地として栄え、多くの商人が店や蔵を構え、大変な活況を呈していた。
 いまでも、路地には2列の敷石が走っているが、このレールのような石板は、川から荷揚げされた物資を荷車で土蔵へ運ぶさいに利用された軌道の名残りである。これが唯一、往時の繁栄を偲ばせる遺物となっている。
 明治になると、鉄道・陸運の発達により、水運の町・倉敷は、衰退の一途をたどっていった。恐らく、そのままいけば、歴史にその名を留めるだけの町になってしまったはずだ。
 それを救ったのが、地元出身の実業家大原孫三郎だった。
 孫三郎は1880年、大原家の跡取りとして生まれた。大原家はもともと、児島屋と呼ばれる倉敷の富商で、明治に入って倉敷紡績(現クラボウ)と倉敷銀行(現中国銀行)を設立している。
 1906年、孫三郎は家督を継ぐと、持ち前の経営手腕を発揮して、次々と事業を拡大していった。
 彼の偉さは、事業で稼いだ金を郷土に還元したことにある。
 倉敷中央病院、岡山孤児院、社会問題研究所などをつくって社会福祉に努める一方、倉敷の町並み保存に力と金を注ぎ、1930年、巨費を投じてこの地に、壮大な大原美術館を開設した。
 美観地区の入口に立つギリシャ神殿風の建造物がそれだ。だが、驚くのは建物自体ではなく、館内のコレクションだ。ゴッホ、ゴーギャン、マチス、ルノワール、モネ、セザンヌ、ロートレックなど、西欧の巨匠の作品が多数収集され、展示されている。日本、いや世界でも有数の美術館である
 倉敷には年間200万人以上の観光客が訪れるが、観光の最大の目的が大原美術館にあることは間違いない。
 孫三郎は、衰微した倉敷という商業都市を、観光都市として再生することに見事に成功したのである。現在、美観地区には多くの博物館が集められ、一大文化センターを形成している。


日本実業出版
「日本史の雑学事典」
JLogosID : 14820744


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【この辞典の書籍版説明】

「日本史の雑学事典」河合敦

歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。

出版社: 日本史の雑学事典[link]
編集: 河合敦
価格:1404
収録数: 136語224
サイズ: 18.6x13x2.2cm
発売日: 2002年6月
ISBN: 978-4534034137